三四郎池の歴史的変遷について



背景と目的

本調査では東京大学本郷キャンパス内に位置する、三四郎池の歴史的変遷について解明した。本プロジェクト(SiLR:三四郎池ランドスケープリノベーションプロジェクト)における三四郎池の歴史調査の意義としては、今後の整備・改修に向けての視座を明確にすることにある。リノベーションという言葉が示すように、本プロジェクトの主旨は三四郎池の現在の環境・利用を再編するということにある。本調査は、今後どういったコト・モノを残していくか、あるいはどういった点を改善していくか、というヴィジョンを描く上での基礎的知見に資するものと考えられる。

三四郎池は、元来加賀藩の大名庭園としての履歴を持ち、後に東京大学へと編入された。そのように庭園からキャンパス内のオープンスペースへと質的な変化を遂げた三四郎池に対して、その歴史的な変遷を社会情勢の移り変わりと共に考察することを目的とした。具体的には、三四郎池の位置づけ・空間的な変化を、庭園が作庭された江戸初期から現代までの経過から体系的に整理した。 上述の観点から三四郎池に関する歴史を概観した結果、経過を以下のように4時期に分類した。第1期は三四郎池が建設された江戸初期から幕末までの期間であり、大名庭園として一斉風靡していた「庭園期」を指す。第2期は明治維新から昭和初期にかけての期間であり、東京帝国大学の敷地へと編入された直後に相当する「変革期」である。第3期は、関東大震災の復興期から戦後の経済成長に至るまでの「キャンパスオープンスペース萌芽期」とする。最後に第4期は1970年代の高度経済成長期後から現在に至るまでの期間「キャンパスオープンスペース安定期」である。各時期における空間・利用に関する史実を整理し、三四郎池の位置づけを把握した。 本調査を遂行するに当たって、主に加賀藩、東京(帝国)大学に関する文献をレビューした。



三四郎池の歴史的変遷

第1期 庭園期―江戸初期~末期―

現在の本郷キャンパスに相当する敷地が、加賀藩前田利常の所有となったのは1617年頃であり、大阪夏の陣の褒美として将軍より賜ったとされる。暫くは荒廃していたものの、寛永6年(1629年)に徳川秀忠・家光両公が相次いで訪問した。それに先立って、相当大規模な殿舎の建築と庭園(後の育徳園、現在の三四郎池)の整備がなされた模様である。加賀松雲公(1909)によると、「御露地、泉水、築山などできし、富士見の亭、麻木亭、達磨亭、カラカサ亭、三角亭、鳩の亭などと名づけ、珍しかりける、御物ずきの御亭どもできし」とある。また毎年6月1日、将軍に献上するための氷を貯蔵する「氷室」も園内に築かれたとされる。庭園作庭の過程にて築かれたサザエ山は螺旋状の登り道のある築山で、1883年に陸軍によって測量された5千分の1東京図によると、比高6m海抜約40mに及び、その頂上からは江戸湾や富士山を眺めることができたという。この築山は庭園の池を掘った際の土砂を積み上げて築かれたもので、金沢兼六園のサザエ山を模したものとされる。園内には八景、八境の勝が配され、泉水・築山・小亭等数奇を極めたものであった。庭園の名前は5代藩主綱紀によって、育徳園と命名され(三四郎池という愛称は、1946年8月の東京帝国大学新聞の記事において初めて登場する)、当時江戸諸侯邸の庭園中第一をもって称せられた。亭や奇岩の配置された庭園は、静寂で鬱蒼とした木立に覆われていた模様であり、とりわけ三四郎池の有する林園美が賞賛された。現存する最も古い絵図は本郷邸が上屋敷となった1683年以降の、武州本郷邸図(1688年)である。中ノ島を配した泉水や栄螺山、富士山(後の名称は椿山であり、1964年に着工された経済学部校舎の建設によって消滅)といった、後の時代にも一貫してみられる空間構成要素がこの時期には完成していたことがうかがえる。当時の正確な測量に基づいて作成された1840年代前半の絵図(図1、 江戸御上屋敷絵図)と比較すると、庭園が完成した江戸時代初期から末期までの約220年あまり、大きな空間構成の変化がみられなかったと考えられる。

当時の三四郎池内の利用や機能について、森下(1990)に詳しい。三四郎池は屋敷の中枢を担う御殿空間の核をなし、庭園は屋根のついた板塀によって区分けされていた。多様な施設を内包し、ミクロコスモスとも称される加賀藩邸は、“御殿空間”と“詰人空間”(家臣や小者の生活する場所)というように空間に明確なヒエラルキーが存在した。特に三四郎池への出入りに関して、その監視が厳しかったとされ、夜中でさえも見回りがあったという記述が残されている。三四郎池は主として、藩主が来客を接待する中心的な場として用いられており、庭園内を散策し、御亭で休憩し、その後馬場へ行くという一連のもてなしが行われていたとされる。すなわち、明治維新後になって始めて四民に対して拝見が許可されるまでは、たとえ家臣といえども容易には拝見できない、“聖域”であったと考えられる。他方、火除け地としての機能も重要であった。明暦・天和の大火など、江戸時代、約250年間に加賀藩邸は少なくとも6回は大規模な火災に見舞われている。火災の延焼を防ぐこと以外に、当然避難場所として、あるいは消火用水として三四郎池の水が利用されていたと考えられる。

以上のことから、池泉や築山、御亭、氷室といった三四郎池を構成する景観構成要素は、庭園作庭当初よりみられ、江戸時代を通して利用・維持された。また三四郎池は、藩主の接待の場として、あるいは火除け地として、特別な意味を付加された場所であった。

   
   図1:江戸御上屋敷絵図(1840-1845年) における三四郎池の様子 金沢市立玉川図書館 近世史料館所蔵

   
   図1:江戸御上屋敷絵図を元に作成した庭園内の模式図

   
   
   写真1,2:三四郎池内の築山のモデルとなった金沢兼六園のサザエ山と、同船型御亭

第2期 変革期―明治初期~昭和初期―

1867年明治維新をむかえ、加賀潘の屋敷は官有地へと改められた。三四郎池のある区域は1871年に文部省用地として接収された。官有地となった以降の加賀藩屋敷内部の様子や具体の管理については明らかではないが、わずかの建物の修復が行われた以外は、荒廃の進むままであったと考えられている。お雇い外国人による回顧録から、当時の加賀藩邸に対する言説として「荒漠タル原野」という記述が残されている。江戸期に名勝と称された三四郎池は、明治維新を迎えた直後には荒廃し、薮化していったものと推察される。東京医学校が本郷の地に移転した1876年、あるいは東京医学校と東京開成学校が合併し東京大学が誕生した1877年において、残された三四郎池の池と樹叢を大学構内に組み込むことは既に早いうちから決まっていたものとみられている。

東京大学の医・法・文・理・工それぞれの部局の配置は、敷地のほぼ中央を占める旧加賀藩上屋敷及び三四郎池の周辺に広がる。それぞれの配置は加賀藩時代の敷地の構造に強く則っていたとされる。東京大学編入直後の諸施設の建設に関する特徴として、比較的キャンパス全体への展望や計画性が曖昧であり、またスタイルや建築型という観点でも多様で、いわば自然発生的な成長を遂げていったと指摘されている。この時期、三四郎池の周囲にはこうした無秩序な諸施設が急ピッチで建設されていったという経緯がある。東京大学初期におけるキャンパス内の建物について、1892年当時レンガ造の建物の総面積は2500坪に過ぎなかったが、25年のうちに9300坪に増加した。関東大震災を迎える前までの四半世紀、本郷キャンパスには未使用の空地をほとんど残さないほど諸施設の整備はほぼ完了していたとされる。すなわち、明治から大正期にかけ、一貫して諸施設の建設に余念がなかったものと推察することができる。

上述のように、三四郎池周囲の様相が変化するに伴い、その空間は徐々に侵食されていった。東・南の両際については、当初よりそれぞれ運動場と医学関連施設が隣接していた関係で変化はみられないが(図2参照)、西・北に関しては道路位置の変更、諸施設の拡充に伴い、三四郎池内部まで変化が生じていることが概観される。経年的なキャンパス図面を通して読み取れる三四郎池内部の変化として、以下4つを事例として挙げる。一つは、三四郎池の西側に位置し、江戸初期に築かれたサザエ山である。1897年からこの近傍に医科大学衛生学・生理学・医化学・薬物学の4教室3棟が着工され、その工事の過程でサザエ山は消滅した。計画の不十分さに加え、この区域は構内において地形的に建設に優位であったことが指摘されている。二つは、三四郎池から北東に向かって流れ出る水路である。キャンパス図面による照合から1890年代前半に消失したことが分かる。幅約1.8mある水路は空掘となり、サザエ山の築山を崩して、埋め立てられた。サザエ山と水路に関しては、キャンパス拡充という実利目的のために、周辺諸施設建設の過程において消失したと考えられる。三つは、氷室である。三四郎池の北東部に位置していた氷室は、キャンパス図面より消失している。風俗画報(1907年)によると、明治初期までは存在していたものであり、キャンパス編入後に撤去されたものとみられる。最後は、三四郎池の周囲に配された御亭である。現在ではカラカサ御亭の礎石が残されているに過ぎないが、江戸初期から後期にかけて幾度と築かれた御亭は、その多くがこの時期に姿を消している。氷室と御亭が消失した背景には、加賀藩邸が大学のキャンパス用地へと改められるに従い、大名庭園としての役目を終え、結果的に不必要な施設になったからであると考えられる。氷室は氷を将軍へ献上用するための施設であり、御亭は客人の接待のために使われていたという用途を考慮すると、キャンパス内には無意味であったと考えられる。

以上のことから、明治初期から大正時代にかけて、計画性を欠いたキャンパス整備が急速に進む中で、三四郎池の空間は大きく改変されていったことが分かった。その理由として、一つはキャンパス拡充という実利目的のため、二つは大名庭園としての役割を終えたことに起因すると考えられる。

   
   図2:参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図」(1883年)より本郷キャンパスの位置するエリアを抽出

   
   図3:1880年(左)キャンパス図面 中央に位置するのが三四郎池 東京大学施設部より提供いただいた資料を引用

   
   図3:1917年(右)キャンパス図面 中央に位置するのが三四郎池 東京大学施設部より提供いただいた資料を引用

   
   写真3:第2期における三四郎池の風景(1909年)医学生とその時代 : 東京大学医学部卒業アルバムにみる日本近代医学の歩み(2008)を引用

   
   写真4:第2期における三四郎池の風景(1911年)医学生とその時代 : 東京大学医学部卒業アルバムにみる日本近代医学の歩み(2008)を引用

第3期 キャンパスオープンスペース萌芽期―昭和初期~高度経済成長期―

キャンパス内の諸施設の建設が一段落を向かえた折、1923年関東大震災が発生した。第2次大戦に伴う被害が皆無であった本郷キャンパス及び三四郎池にとって、関東大震災による被害は、最後にして、かつ甚大であった。赤門脇の医化学教室より出火した火は、三四郎池を取り囲む建物を順じ焼き尽くし、三四郎池脇の山上を舐めつくすように拡大していった、とされる。当時の被害建物を示した図4より、延焼及び倒壊した建物は三四郎池を囲むように配置されていることが伺える。当時の被害状況から火災は運動場、樹木池等に遮られるように鎮火した。当時本郷キャンパスは、学内関係者・近隣住民の避難用地として貢献しており、罹災者がキャンパス内の数少ないオープンスペースである三四郎池へ避難したと推測される。さらに、本郷区史(1937)に記述があるように、三四郎池の池水は消火用の水に利用された。

震災を機に、キャンパスの復興計画が練られる。大正12年の段階で、本郷キャンパスは必要に応じて校舎を増築してきたことに起因する無秩序さにより、既に狭隘と思われるほどの状態であったとされる。復興計画の指揮を執ったのは当時の営繕課長を務めていた内田祥三(後の東京帝国大学第14代総長)であった。復興の基本方針は、災害を最小限とするために建物の周りに広い空地を作ること、そして建築物のデザインを統一し、諸施設の配置を秩序立てることであった。内田のキャンパス計画全体における三四郎池の位置づけに関して、公式な文書は残されてはいないものの、内田の描いたキャンパス計画より三四郎池に対する思慮を読み取ることができる。図5より、三四郎池の周囲には広幅員の道路を計画し、堅固な縁取りを行っている。すなわち第2期のように諸施設の建て増しによって、三四郎池の内部にこれ以上の改変が及ぶのを避けることを意図して計画されたものと考えられる。火災延焼防止や罹災者の避難地として功を奏した、三四郎池に関しては、極力手を加えずに保全する方針であったということが見て取れる。第3期は、本郷キャンパス復興計画を策定する中において、三四郎池の防災上の意義が評価され、これ以上の改変を許容しない“保全”という基本スタンスが初めて確立した時期であると考えられる。

一方で、三四郎池内の一部改修を担ったのが、当時農学部講師の田村剛であった。整備計画に関する書は残されておらず、伝承という形で、「岩を急斜面から落として、着地した場所をその位置とする」、といった事柄が語り継がれているに過ぎない。田村は、著書「実用主義の庭園」(1919年)において、庭園・公園の実用性・公共性という概念を提唱している。それゆえ、学生・教職員の利用を見据えた改修が行われたものと推察することができる。図書館復興に関する報告書には、「庭園には四阿、花壇、噴水、渓流を配し、緑滴る木立も少なくない」という記述があることから、震災復興を機に、新たな公共空間としての整備が加わったことが推測される。

震災復興以降、キャンパス図面を通してみると、三四郎池内の空間はほとんど変わらないことが分かる。局所的な事例として、三四郎池にアズマネザサやツツジが新たに植えられるといった、些細な改変が行われたものの三四郎池全体の空間は改変されずに保持された。キャンパス内におけるオープンスペースとしての位置づけが定着した時期であるといえる。人々の利用の観点からしても、第1期の“聖域”という位置づけから、学生・教職員・近隣住民の憩いの場としての役割を獲得していったものと考えることができる。東京帝国大学新聞には学生が池で泳ぐ様子やアイススケートを楽しむ記事が紹介されている(図6)。

第3期の特徴を以下にまとめる。震災復興を機に、本郷キャンパス内の統一した施設計画が作成された。その中において防災上の教訓を生かし、三四郎池は保全というスタンスのもと、人々の利用に立脚した改修がなされたことが推察された。その結果として、三四郎池のキャンパス内オープンスペースとしての概念が初めて確立した時期といえる。

   
   図4:震災により倒壊・全焼した建物の配置(数字は延焼の順番を示す)東京帝国大学構内及び附属航空研究所火災報告(1923年)より引用

   
   図5:東京帝国大学復旧計画案(ピンクで示したのが三四郎池を囲む街路)東京帝国大学復旧計画書其2(1923年)より引用・一部改変

   
   
   
   写真5,6,7:震災直後の三四郎池内の様子 東京帝國大學附屬圖書館復興帖(1930年)より引用

   
   
   図6:三四郎池においてアイススケート・水泳をする学生の記事 東京帝国大学新聞(1928年、1946年)より引用

第4期 キャンパスオープンスペース安定期―高度経済成長期~現在―

最後に、1970年代を通じた高度経済成長という大きな社会変化を背景に、内田の描いたキャンパス計画の影響力が弱まった時期に着目する。この時期の本郷キャンパスは既に飽和状態にあり、騒音や排気ガスがキャンパスの新たな問題となる。こうした要請を受けて、1974年キャンパス内の土地利用に関する計画が初めて発表された(図7)。1970年代のこうしたキャンパス全体に亘る土地利用計画がなされたのは、全国においても先駆けてのことであった。具体的には、本郷キャンパス全体を“緑地”“保存”“再開発”“整備”の4地区に区分けし、建設行為の規制・誘導を図り、将来的な本郷キャンパスの有効且つ適切な土地利用を図ることを目的とした。

三四郎池は4種のゾーニングにおいて、緑地地区として指定を受けた。緑地地区の定義は以下の通りである。「一団の植樹された地域、又は運動場等の空地で、健全な戸外生活のように供され、かつ大学の教育研究活動にふさわしい物的環境を保つために、公共空地として維持する必要がある地区をいう。緑地に相応しい施設以外は原則として建設行為を認めない。」

第1期から第3期までは一貫して、社会情勢・周辺環境の移り変わりと共に、三四郎池の環境・利用・位置づけも大きく変化してきたという経緯に対して、第4期においては、震災復興期に打ち立てられた「保全」というスタンスが継続された。その底流には、戦後の急速な経済成長を遂げる中において、東京の都心部を中心に緑地やオープンスペースの多くが失われてきたことがあると考えられる。すなわち社会情勢が変化したことを通じて、大都市東京のほぼ中央に位置する三四郎池の持つ“緑地”としての価値が高まったことが推測される。その価値とは具体的には、都市住民にとってのレクリエーション・休息空間としての役割と捉えることができる。近年では、学内関係者以外にも近隣住民の利用者が多くみられるのもその結果であると考えられる。

以下、高度経済成長期から現在にかけての第4期の特徴をまとめる。昭和初期の震災復興時に計画された“保全”というスタンスが第4期においても踏襲され、周辺の社会情勢の変化とは裏腹に、三四郎池の環境は保存された。その背景には、急速な都市化に対して、以前にも増して都市部における緑地としての価値が高まったことがあるものと考察された。

   
   図7:緑地地区と三四郎池

本調査のまとめと展望

本調査の成果を以下にまとめる。

三四郎池の位置づけや利用、空間が時代と共に変化してきたことが明らかとなった。泉水や築山、小亭を配した三四郎池が作庭された江戸期は、諸侯一の名勝と称され、藩主が接待をする際に利用する特別な空間であった。その後、明治維新を迎え、官有地へと接収される中で、三四郎池は大いに荒廃した。東京大学に編入された直後の明治期から大正期にかけては、諸施設の建設ラッシュと相まって、三四郎池内の空間は大きく変容した。あるいは、大名庭園としての役割を終えたことが、三四郎池内に従来からみられた諸施設の消失へと繋がったことが考察された。最後にして最大の被害を被った関東大震災からの復興計画では、オープンスペースのもつ防災上の価値が再認識され、三四郎池の周囲に明確な縁取りを行い、これ以上の改変が及ぶのを避けることが意図された。そうした保全という考え方は、高度経済成長期後、現在に至るまで踏襲された。1970年代の高度経済成長という大きな社会情勢の変化に際しても保全というスタンスが保持された背景には、そうした社会情勢の変化、すなわち急速な都市化・高密化が逆に三四郎池の有する緑地としての価値を増大させたことがあると考えられる。

以上のことから、現在の三四郎池の姿は、江戸時代の大名庭園としての景観を土台に、震災後の防災上の教訓・キャンパス内オープンスペースとしての意義といった、各時代における思想の“積層”として捉えることができる。そうした一連の経過を把握した上で、2008年度現在における社会情勢・人々のニーズを見定めた上で、新たな三四郎池の景観を創造していくことが望まれる。

謝辞

本調査を進めるにあたり、東京大学学生支援グループの方々には聞き取り調査や現地調査に際して多大なるご支援をいただいた。また、三四郎池・東京大学の歴史に関して、諸先生方に数多くの有益なコメントや関連資料の提供にご協力いただいた。とりわけ、東京大学史史料室の谷本宗生氏、東京大学史料編纂所の宮崎勝美氏、東京大学工学部建築学科の藤井恵介氏、東京大学名誉教授井手久登氏、東京大学広報センター細谷恵子氏、東京大学本部施設・資産系環境グループ江川豊氏には得がたい貴重なアドバイスをいただいた。 以上の方々をはじめとして、数多くの方々のご協力をいただくことによって、本調査を成し遂げることができた.各氏に心より御礼を申し上げる。

引用文献

1 東京大学医学部百年史編集委員会(1967):東京大学医学部百年史、東京大学出版会.
2 東京帝國大學庶務課(1940):懐徳館の由来、附 赤門と育徳園、東京帝国大学、pp39.
3 近藤磐雄(1909):加賀松雲公上巻.
4 西秋良宏(2000):加賀殿再訪、東京大学本郷キャンパスの遺跡、東京大学総合研究博物館.
5 『東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書4 東京大学本郷構内の遺跡 山上会館・御殿下記念館地点 第3分冊 考察編』(東京大学埋蔵文化財調査室、1990年)の第1章3節「育徳園」(森下徹氏)として整理されている.
6 1717年の文献; 参議公年表を参照.
7 東京大学百年史編集委員会(1984):東京大學百年史通史2、東京大学出版会.
8 岸田省吾(1997):東京大学本郷キャンパスの形成と変容に関する研究、東京大学学位論文.
9 阪口豊(1990):東京大学の土台―本郷キャンパスの地形と地質―、東京大学史紀要、8、1-33.
10 風俗画報(1907)を参照.
11 東京帝国大学構内及ビ附属航空研究所火災報告(1923)を参照.
12 本郷区役所(1937):本郷区史.
13 東京大学総合研究資料館特別展示実行委員会(1988):東京大学本郷キャンパスの百年、東京大学総合研究資料館、pp167.
14 東京帝國大學(1932):東京帝國大學五十年史、東京帝国大学下巻.
15 東京帝國大學附屬圖書館復興帖:大正十二年より昭和四年に亙る復興帖報告及圖面(1930)を参照.
16 1975年東京大学学内広報282参照.